ことばの限界。大きすぎるザルの網と分断された世界。

本当に何かを伝えたい時
ことばは、いつも役に立たない。

強い感動ほど、言葉にする程に
どんどん安っぽくなっていく。

昔からこう思っていました。
そうして最近、この謎が解けました。

 


パリの老舗デパート「ギャラリー ラファイエット」。

 

私がことばへの不信を感じる時は
目に見えない何かを伝えたいとき。

強い感動を伝えたい時、どんなに憎らしかったかの程度を表現したい時、微妙な色加減を表現したい時、刻々と変わる和音の変化がどれだけキレイか言いたい時、大きな感情を伝えたい時。

それこそ「言葉にならない」という表現があるほどに、形にならないソレを、言葉で表現するのは難しい。

 

逆に言葉が便利なのは
大雑把で単純な事を伝える時。

モノの名前、単純な動作、大体の感情、車、パソコン、怒っている、立つ、座る…etc。大体のくくりを伝える時には、言葉ってとても分かりやすくて便利。型番や機種、専門用語を知っているほどに表現の幅は尚広がる。(でも専門用語は、伝えられる人が限られる。それを知っていないと伝わらないから。)

 

そもそも言葉って何だろうか。
そう考えると、言葉って、何かと何かの間に境界線を引いたものだという見方もできます。地名・音名・色名・モノの名前…

数値的・常識的・一定の定義がある。だから伝わるのだけれど、それはむかし誰かが名前をつけたもの。(「私」は定義を作っていない。定義は人によって微妙に、時に大きく違うものだ。)

目にみえるモノは、境い目があるから分かりやすい。違いがハッキリしているから分かりやすい。リンゴとバナナ、鉛筆と消しゴム、スマホと鞄。境い目は明確だ。

 

では、見えないコトは?
目には見えない「コト」の境い目は、どこにあるだろうか。

怒りと憎しみの境い目は?感動の度合いは?
100%のうち何%だろうか考えてみても、そもそも300%の感動かもしれない。メーター振り切る感動だってあってもいいけれど、そんな衝動、どうやって言葉にしても言葉の枠には収まりようがない。

ココからココまでが青。ココからココまでが「ド」の音。周波数や波長を調べたら定義できるけれど、よほど訓練された人でないと明確な線引は難しい。(その意味で、数学は一つの言語だ)

 

言葉は、境界線。
何かと何かの境い目を見つけて、ブツ切りに境界線を決めたもの。ココからココまでを「◎◎」としよう。(その範囲外の、はみ出たことばはどこへ行こうか。)

境い目の見えない気持ちや感情、虹色のグラデーションの間の色や、キレイな和音の変化は何て言えばいいのだろう。(数学なら表現できるのでしょう。)

無理矢理ギュウギュウにして、若干切ったり削ったりして定義された「言葉」の枠に、境い目のない感情や気持ちを押し込んだところで、はじめから言葉の枠に入りきれてない。

言葉で考える限界もココにある。言葉で考えてる時点で、既成概念の組み合わせでしか無いから。(でも、その組合せの独自性も面白かったりする!)

(1人の聖人君子の教えが、何通りにも解釈されて伝えられるのは、言葉の定義が一人一人違うからきっと必然なこと、なのかなとも思ったり。)

 

言葉は、目に見えるもの・大雑把な事を伝えるにはとても便利。

でもでも。本当に伝えたいのは、目には見えない部分。そこを伝えるには、言葉はザルの網が大きすぎる。
どれほど好きか、どんなに感動したか。本当に伝えたい事ほど、ことばでは足らなさすぎる。ザルのアミが大きすぎる。伝えられない部分ばかりがポロポロとだだ漏れになる。全然、伝えられない。

 

「本当に大切は物は目に見えない」
名作文学「星の王子さま」の中に出てくる有名な言葉です。でも同時に私は、本当に大切なモノは言葉にならないなぁとも思うのです。(だから言葉は、本当に大切なモノではないのかもしれない。言葉は必要で便利な道具だという上で。)

 

言葉の、限界。

 

そうしてまた思うのは、言葉以外の言語もあるということ。
ことばが役に立たない時、音楽や美術、芸術は、ひとつの言語になる。表情や動作、身振り手振りだってそうだ。(言語外のそちらでのコミュニケーションの方が得意な人もいるだろう)

、、、。

って、朝から大真面目に哲学てつがく、、、♡