言葉への落とし込み作業と珈琲を淹れる作業との共通点。

私は、思ったこと感じたことを上手く言語化するのが苦手です。

強い衝動や感情、モヤモヤや曖昧な気持ち…。
その時そのまま言葉にできたらいいのですが、人に伝えるために言語化するためには数日必要なこともあります。感覚では何となく分かるけれど、言語化するためには10年以上かかった「何となく」も…。

最近、とある「モヤモヤ」を3日程かけて自問していたことがあります。
そうして気づいたことは、「モヤモヤ」を言語化する作業は、コーヒーを淹れる作業に似ている部分があるなということ。

ミルでひいた珈琲豆が原型の感情。
そこから「言葉」というフィルターをかけて、フィルターを通ったものだけがポタポタとゆっくり言葉になっていく。そんな感じです。

言葉にできそうな「気持ち」を、少しずつポタポタと落としていく。美味しい珈琲ができても、フィルターの中にはたくさんの珈琲豆が残っています。コレは言葉にならなかった部分。言葉の範囲・定義には収まり切らなかった部分。

珈琲を淹れる作業と「モヤモヤ」を言語化する作業の似ている所

・少しずつ、ポタポタと落としていく所
・原型すべてが珈琲にならない所(挽いた珈琲豆・「言葉」の定義に収まり切らなかった感情)
・すべてのお湯が落ちない所(フィルターを通りきらなかった水、珈琲豆に染み込んだ水は珈琲にはなっていない=言語化できていないモノがある所)
・珈琲にならないと(言葉にならないと)用をなさないと所(伝わらないところ)

…なんだコレは…。

うーん。。。
実はこの記事も、まだ完全に言語化できていない状態で書いています。

頭の中にある「言語化」のイメージを伝える、バッチリな例えがなかなか出てこない。一般的で伝わるかな?と「珈琲」の例を出したのですが、何となくなイメージは表現できても納得はいかず、、、。

なかなか。
想いや感情をぴったりの「言葉」に表すことは、言葉への落とし込み作業は難しいものです。