「沈黙の春」のその先。本当に伝えたかったこと。

前よりも、ごくありふれた自然の美しさに気づけるようになりました。嬉しいことだなぁと思います。

池のある近くの公園での散歩。

すすきの穂が夕陽に透けてゆらゆら。蜘蛛の巣にかかった水滴に陽が反射してキラキラ。空が青くてきれいだなぁ。色あせても調和感が魅力的な落ち葉の絶妙なトーン(その上を歩くとカシャカシャとした乾いた音が小気味よい)。

すこし体調を崩したことから、働くペースを落としてすこし。無視し続けて聞こえなくなった身体の声に、自分の本音に。耳を澄ますべく「不要な」情報を前よりシャットアウトして最近。

自然って、ほんとうにキレイだなぁと気付けるようになりました。そこらに生えてる枯れ木も草も、ソレだけで絵になる色柄×配色。おしゃれのセンスも叶わない。

長年の鍛錬を繰り返した画家が、時間をかけてやっと1枚の絵画にするような調和した色が、すぐそこいらに落ちている。有名な作曲家が、技術のある演奏家だけに奏でられる技法で模した鳥のさえずりも、耳を向けるだけで聞こえてくる。

のんびりとした気持ちが、心にじわーと広がっていく。

、、、。

こういう話は一般的には、「ドラマ」にならない「ニュース」にならない「面白くない」。なぜならこれらは「刺激がないから」「起伏がないから」「地味だから」。

ロミオとジュリエットがすぐに結ばれて幸せに結婚して、楽しくハッピーに人生を終えたなら、きっと人気のない「失敗作」となったのだろう。

 

化学薬品や農薬に対して警鐘を鳴らした「沈黙の春」。
海洋生物学者でもあった著者、レイチェル・カーソンさんが環境問題や公害問題の現状や実態を告発して世界で話題になった本…

…なのですが、私は彼女が人生をかけて真に言いたかったのは「地球環境や化学薬品がヤバすぎる…」という類のものではなく「自然の美しさ」な気がしています。

というのは、レイチェル・カーソンさんの人生最晩年に書かれた本「The Sense  of Wonder センス・オブ・ワンダー」を読んで感じたこと。

「The Sense  of Wonder センス・オブ・ワンダー」は、彼女の死後に友人たちの手によって遺作として出版された本。「沈黙の春」が ”問題提起” の意味を持つのなら、「センス・オブ・ワンダー」は彼女の人生をかけて導き出した ”答え”であると私は思っています。

書かれているのは、幼い甥っ子と自然の中で遊ぶ何気ない日常。夜空の星がキレイなこと、2人で波音に耳をすませたこと、小さな雪の結晶や自然の「繊細な手仕事」に感動したこと…。その中で、こんな言葉が綴られていました。

もしもわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見張る感性」を授けてほしいとたのむでしょう。

環境問題を大々的に告発した彼女が後世に残したかったこと。それは、環境問題ばかりに囚われるのではなく、資本主義や企業を責め続けることでもなく、政治への糾弾を辞めないことでもなく、もっと各種研究を深めるべきだということではなく。

ただただ、自然の素晴らしさに感動できる感性を持ち続けられる人であること。それこそ、彼女が一番大切にしたくて伝えたかったことなのかなと、思ったのです。

刺激的でショッキングな内容は何も書かれていません。
事件は何も起きません。全米も泣かないし、世界はすこしも震撼しない。盛り上がる山場も無ければオチもドラマもない、人によっては「つまらない」内容だと思います。

ショッキングじゃない話題性がないニュースにならない地味すぎる。だから有名にならない注目されない埋もれてしまう。きっと本当は、「沈黙の春」よりずっと大切なことのはずなのに。

刺激やニュース、分かりやすいもの目立つもの。
それらは拡散性があって、ある種ひとの興味を掻き立てる。だけれど、それだけでは「本当」は見えてこない。そこに真実はあるのだろうか(手品の種明かしのように、騒ぎたてる波の中には、隠したい別の真実があるのかもしれない)。

美しいものを美しいと感じられる感性を育むこと

最近読んだ本で、しきりに頷いた部分があります。

いまの環境教育というのは、ヘドロを見せて「こんなに汚いだろう」ってやるんですが、あれは間違っているんじゃないかと思うんですよ。きれいなものを見せれば、汚いものなんてつくらなくなるんじゃないでしょうか。

こちら、「バカの壁」で有名な解剖学者の養老孟司さんと「1/fゆらぎ扇風機」を開発された理論物理学者の佐治晴夫さんの対談本で見つけた言葉です。※

本当にきれいなものや美しいものを体験すること。
それは、どんな禁止や抑制、反対や強制措置よりも強く長い動機になるのだと思います。

一流を見分けるには、一流をたくさん体験するに限る。鋭い「目利き」になるためには、どれだけホンモノを見たかがモノを言う。誰でも知っている当たり前のことだけれど、環境問題や人生にも言えるのかもしれません。

たくさんのヘドロを見ていたら、ヘドロの種類や知識や理解は深まり、ヘドロを作ることは上手になるかもしれない。けれど、美しかったりキレイな何かを創りたいとしたら、どうだろうか。気持ちの良い社会や未来を創りたかったとしたら、どうなんだろうか。

日常のちいさな感動や美しさに気がつけること。
心満ちる時間を増やすこと、一瞬でもいいから「キレイだなぁ」と心動く時間を持てること、何かに美を見つけられること。

これらは一見、環境問題とは無関係なこと。
でも、私はとてもとても、それらこそが深く関係のあることのような気がしてならないのです。

囲碁も将棋も、人工知能に負けた。
何かを聞けば、グーグルが1秒で答えを弾き出す。

そんな中で、ひとが、美しさを感じられること感動できること。それは、とても大切で豊かなことだなぁと思うのです。。。

 

そして長文書いておいてアレですが…。
ただ単に、これら↑が私には絶対的に必要なんだー!!大事なんじゃーー!(何なら、文句あるかー)的なことを、大真面目に大げさに主張したかっただけなのかもしれません…。と書き切ってからリアルに気がつく、、、。
結構頑張って書いたは良いが、自分のことはまだまだ良く分からないのであります、、、(このブログは、自分を知りたくて書いているのも大きな理由のひとつ)。

※引用1:佑学社『センス・オブ・ワンダー』レイチェル・カーソン著、上遠恵子訳、1991年、21P
※引用2:河出書房新社『「わかる」ことは「かわる」こと 』、養老孟司(著)、佐治晴夫(著)、2004年、79P