トイレに流れるそれにバイバイする子どもの賢さ

便器に向かって「バイバ〜イ♪」
流れたそれは ”自分の子ども”、なんだとか。

小さな子は、物事への直視度が高く賢い。
知識や常識でまだ、曇ってないからそのまま見れる。

物事をグッと引いてみたら、確かにそれは私。私はトイレに流したそれを、大きな流れで食べている。

身体から出たものは
→微生物の食べ物となり
→土となり
→植物となり
→動物となり
私はその植物や動物を食べる

もともと私の中にあったものが、微生物の中に、土の中に、植物の中に、動物の中に入り、再び私の中に。

水も空気も食べ物も。
地球上の色んなモノの中に「元・わたし」と「これから・わたし」が潜んでいる。一度別れても、形を変えて戻ってくるもの。

どこからどこまでが、私。

鉛筆で白黒デッサン。
描くのは、ひたすら「影の濃さ」。モノとモノとの境界線は、白〜黒の微妙なグラデーションで表現していく。

明確・パキッと決まった1本の境界線は描けない(それを描くと漫画的な二次元表現になる)。デッサンした時、モノからモノへは、段々と変わる濃度の差だけでした。

モノとモノとの境界線
わたしと私以外の境界線

。。。

人類はじまりの言語には
きっと「主語」は無かった気がする。

地球も自然もすべてが「わたし」。
それが次第に、一族が私・国家が私・家族が私・個人が私と限定された、気がしています(「わたし」を表す昔の日本漢字も、調べてみると面白い)。

世界にある、色んなゲームと人生の楽しみ方。
最近の私は「わたし」の範囲を広げるゲームに、豊かな幸せを感じています。

 

合唱部時代、大好きだった曲があります。
谷川俊太郎さん作詞、新実徳英さん作曲の「生きる」。絶妙に変化するハーモニーもさることながら、忘れられない歌詞の一部分。

空に樹に人に
私は自らを投げかける
やがて 世界の豊かさ
そのものとなるために

物質的にも精神的にも。
世界に私を投げかけて、反射したもので自らを知る。嬉しいそれも、悲しいそれも、私が反射した一部なら。捉えきれたらその瞬間に、世界が変わる不思議。

 

短所も裏からみれば長所。
闇はダメだとジャッジして分けたのは私。トイレに流したそれが、「汚い」とされるのはなぜ。

汚いこと・だめなこと・いけないこと。
これらを深くふかく掘ることは、(本当に分かった時に)、実はとても大切で美しいことへとつながる気がしています(だからこそ「汚い」と名付けられたのかもしれない、美しいものを隠すために)。

一見「きたない」モノコトは。
それそのままではアレだし、もちろん法律違反はダメだけれどもそうではなくて。なぜそうなのかの「本因」の、寝起きのモヤモヤ話、なのです…。

 

引用:合唱曲集『空に、樹に・・・』より「生きる」
作詞 谷川俊太郎、作曲 新実徳英