かいこさま、と生きること(毛虫の写真はありませぬ

11/06/2019

曾祖母のこと

「かいこ様」と呼び
蚕を育て絹糸を繰る

美しいシルク
生きるということ

。。。

 

前回の「桑の実」の記事。

実家が農家だった母に話すと
蚕(かいこ)の話をしてくれました。

 

曾祖母は 桑の葉あげて
蚕から 絹糸紡ぐ

養鶏もしていたけれど
蚕だけ 呼び名が特別

「かいこさま」

桑の葉 元気に食べる蚕
頭をふりふり まゆを結う

まぁるい繭の中
羽ばたくための サナギ期間

 

…に繭ごとお鍋で
グツグツグツ

繭の中の命は絶え
きれいな絹糸 紡がれる

蚕も支えた日本の経済
母の実家の日々の暮らし

 

。。。

むかし絹産業は、大切な一大産業。
日本の経済成長は、養蚕なしでは成り立たなかったくらいなのです(…と、ググって知る)。

絹糸の作られ方も、知る人にとっては当たり前のこと。
ですが、お鍋のくだりはなかなかに衝撃的でした(そして、絹糸のために育てられる真っ白な蚕だと、たとえ繭から出られたとしても何日も生きられないことも。)。

…なんて書くと人道派?優しい人?のように見えそうですが、またそれはとても違う。「かわいそう」というには矛盾がありすぎる私なのです。

私は日常的に多くの命を頂いている。
毎日食べてる植物・動物。夏になれば蚊も殺す。プランターでは出てきた可愛い雑草の芽を、ためらいもせずに根こそぎ引き抜く。翌日には、枯れている。

蚕のような運命を辿る命はたくさんある。
牛や鶏、実験のために亡くなる生き物、その環境。だけれどそれらすべてを否定したら、私は今の生活はできなくなる。

そうして私は、今の生活を選択しつづけている。
日々の暮らしの工夫、使うもの、買う所。少しずつシフトしてはいるけれど、それでも結局私はとても  残酷だなと思います。

(でもそれを、残酷というのか生きるというのか、言葉はほんとによく分からない。)

一つずつ、すこし知るほど多くの命のうえに私が生きてることが分かる。同時に私は、全然何も知らないことが分かる。自分のことすらまだまだ知らないことだらけ。

 

つい3世代前までは、和服。
その頃は、今より「命を頂いている」ことを直接的に日常的に感じられた頃なのかもしれません。

自分一人だけで生きていると思うと辛くなることもありますが

見たくない現代の闇ともいえそな現状を知る。
それらの命を大切にしたいならば、命を頂きながら生きる、わたしの命を大切にして、真剣に瞬間々々生きることなのか、、、と、思いました。

(先日は「あなたの体は9割が細菌」という本も読みましたが、食べ物だけでなくて、体がひとつの生命体。自分だけれど自分ではない、上手く言えない、、、)

 

。。。

写真は、ベランダ菜園で元気なカタバミです。

「カタバミって雑草じゃまいか」
はい、そうなのですが可愛い花が元気です。

雨の日は花が開きません。

花も毎日閉じては開く
種を飛ばして世代をつなぐ。

少しながらでも植物観察していると
動物と植物の境界線がよく分からなくもなるこの頃。。。

 

感覚

Posted by 12